た。
 何も知らずに先に立って歩いていた吉田が楽しげに口ぶえを吹き出した。それこそ彼が綾子とよくひく「春のソナタ」のヴァイオリンパートの一節だった。
 之を耳にした刹那、中条は身慄いした。
 彼はいきなり吉田の後に身を引き付けた。……
 吉田がT海岸から誤って落ちて頭を粉砕されて即死したという急報が四方にとんだのはそれから間もなくだった。警察からは直ちに係官が出張した。東京から家族の者もかけつけた。
 けれどもそこには何ら他殺の疑いをかけるべき点もなく又自殺と見られる所もなかった。中条直一が相当地位ある某省役人であることが凡ての嫌疑から彼を救った。
 かくして吉田豊は、前途有為の身を以て、T海岸で不慮の過失死をとげたということが一般に報ぜられたのである。

          二

 中条直一は然し其の後、だんだん憂鬱になって行った。そうしてその秋には極度の神経衰弱にかかって、当分役所を休まなければならなくなった。
 同じ家に居ながら彼は、綾子とは一日中一言も口をきかぬことすら多くなった。
 綾子は綾子でピアノを盛んに独りで弾じた。而も相手がないのに、ヴァイオリンやヴァイオリンコンツェ
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