得ない男だった。
 吉田と妻が人目を憚らずに出歩くことは考えても堪らないことだったが、しかし、彼は之に口をださなかった。
 綾子に対しても吉田に対しても、一言も注意すらしなかった。
 云ったら綾子は軽蔑の笑いで一蹴するだろう。子供とはいかぬ迄もまるで年下の吉田に云うことはなお更はずかしいことだった。
 斯うやって悶えの幾月かが経ったが、結局中条直一は吉田の存在を呪うより外仕方がなかったのである。吉田の存在と、ピアノの存在と、ヴァイオリンと而して彼等が好んで合わせる「春のソナタ」と、そうしてその作曲者とを、凡てを彼は呪った。
 然し妻と吉田の間に就いて何らの確証を握っているわけではなかった。が、何らの証拠がないということは中条のような男にとっては証拠があるのと全く変らなかった。吉田の存在が呪わしいのは同じだった。
 春が去って夏が来た。どうしても此のままでは堪らないと感じた彼は、役所の休みを利用して、二、三日前から泳ぎにゆくと称して、吉田をこのT海岸へ連れだしたのである。
 最初の彼の目的は吉田に恥を忘れて事実をつきとめることだった。けれど、宿屋の一室で一寸その話にふれかかった時、吉田は
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