那、あの足場の悪い所だ。あっという間に足をすべらせて彼は下の岩に向って落ちこんだのだった。
 俺はしばらく茫然としたが、直ぐにその原因は判った。綾子は前から知っているだろうが豊は、今になっても蜘蛛に対して極度の恐怖心をもっている。自分から見ると殆ど理由のない恐怖だが、あの刹那あの崖の上に立っている松の木からたれ下《お》ちていたのだろう。丁度彼の顔にあたる所に五寸に余る大蜘蛛が彼が落ちてからなおブラブラしているのを自分は見た。
 豊が口ぶえをふいてのんきに歩いている所へ、不意にこの大蜘蛛が顔にあたったのだ。
 蜘蛛だ! と認めた刹那、彼は恐怖の余りとび上ったのだ。その途端に足をすべらせてしまったにちがいない。
 ああ思えばあの時、あの蜘蛛をそのまま、おいておけばよかった。自分も気味のわるい余りに叩き殺して海に捨ててしまった。自分は何という愚か者だ。もしあの時、誰でも一人人間があのありさまを見ていてくれたなら、俺の人殺しの疑いをはらしてくれるだろうに。又もしいっそ俺が訴えられれば弁解の辞は十分にあるのだ。しかし、妻は俺を人殺しと確信しているくせに、一回も俺に訊ねない限り何を云ってもむだなの
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