マルテが泣き叫んだので彼はあわてて絞殺したわけである。
 一九〇七年七月二日。重罪裁判所で彼の公判が開かれた。
 被告席に着いた彼の姿は一言で云えば、獰猛《どうもう》な鷲《わし》のような印象を人々に与えた。
 凡て犯罪の証拠があるにも不拘《かかわらず》、彼は、犯行の事実を全くおぼえがないと否認した。即ち無意識行為であるという主張をやった。
 彼が犯行後如何に冷静であったかという一つの証拠として、彼がマルテの死体を運んだ電車の車掌の言葉をここに記すと、
「私は、この男を食肉市場の助手だと思ったのです。それでそこにもっているのは牛肉かいときいたもんです。しかし被告は何も答えませんでした」
 検事総長ツルアルリオールは、特に殺人の情況以外に間接の情況が甚だ被告にとって不利なる事を指摘した。実にソレイランは被害者とは十年も前から知合であったのに、人情も何もなくこんな惨虐な事をやったのである。
「かくの如き恐るべき犯人は未だかつて被告席にあらわれたる事なし」
 検事総長はこう結んだ。
 死刑の判決が言渡された。
 その瞬間であった。突如法廷の一角から、絹をさくような声がきこえた。
「人非人め、私
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