ハテナと思ふ瞬間に、階上階下の廊側《らうがは》に右往左往するおびただしい足音も聞えて来た。私は『山賊の襲来』と直感して、すぐはね起きたのである。

   四万温泉の丑の刻

 丑満ごろに、闇をつんざいて聞えた鬨《とき》の声、ただならぬ廊側の足音、てつきり『山賊襲来』と思つたのは、丑の刻を知らせる田村旅館の番頭達の怒鳴り声であつた。童謡一篇。
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   ◇
四万の田村の
番頭さん達は
 ヨイヨイヨイサ

鬨の声あげて
丑の刻知らす
 ヨイヨイヨイサ

夜の夜中だ
番頭さんも眠い
 ヨイヨイヨイサ

眠い顔して
鬨の声あげた
 ヨイヨイヨイサ
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 丁度この日は土用の丑の日である。丑の日の丑の刻に温泉に浸ると万病に特効があるといふしきたりから浴客に時刻を知らせたのである。親切な番頭さん達だ。童謡一篇。
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   ◇
起きなお客さん
丑の刻ア来たよ

はやく起きぬと
丑の刻ア帰る

一度帰れば
今年は来ない

寝ぼはきらひだ
お寝ぼはいやだ

帰ろ帰ろと
風呂場を見てる

起きなお客さん
丑の刻ア来たよ
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 次の日、中之条まで戻つて、長野街道を再び吾妻川の本流にそふて出かけた。四万温泉の眺望は変化に乏しかつた。民謡一篇。
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   ◇
四万でわく湯も
大利根川の

末にや流れの
水となる
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   関東の耶馬渓

 中之条から原町、原町から郷原《さとはら》までの吾妻川にそふた街道は、麻畑の多い平和な農村である。民謡二篇。
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   ◇
畑たたきたたき
土用かと聞けば
土用だ土用だと
麻がいふた
   ◇
麻の下葉が
落ちよと枯りよと
土用に刈らりよか
麻の木を
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 岩島からは対岸の山がせまつて来て、吾妻川は次第次第に急流となつて来る。岩島から川原湯までおよそ二里の間は、関東の耶馬渓と称されてゐるこの街道一の絶景であるが、吾妻川の水がすさまじい音を立てながら水煙を吹いて流れてゐるのを見ると、むしろ物すごい感じがする。民謡一篇。
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   ◇
ここと銚子とは
五十里もあろに
水は寝ないで
流れてく
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   川底から湧く温泉

 やがて長野県についた。吾妻
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