專ら盛唐風の詩を作られたのである。白樂天、元微之の存在は其の頃より知られては居つたであらうが、丁度其の頃入唐した弘法大師も元白の事に就ては何も云つて居ない。それは大師の入唐は徳宗の貞元の末頃から、憲宗の元和の初までゞあつて當時元白體は未ださう盛んではなかつたからである。穆宗の長慶年間に元白の詩文集が出てから初めて有名になつたのであるが、此れは大師が日本へ歸つた後であつて、時は恰も弘仁の末頃であるから、嵯峨天皇の時には元白集は珍らしく、天皇が御覽になつた位のことで、一般には未だ行はれなかつたと云はねばならぬ。此の元白體が有名になつた頃から、支那在來の詩風は一變したのであるが、日本では未だ其の影響を受けなかつたのである。影響を受けたのは菅公の頃であつて、菅公は元白體の詩を作つたのである。然るに菅公の頃に支那では又もや晩唐の温李體なる詩風が行はれ、温庭※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63](飛卿)李商隱(義山)等が有名であつたが、菅公は温庭※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]の集を已に讀で之を愛せられたとの事であるけれども、菅公の詩には温李體のものはあまりない。温李
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