が、支那人のものと肩を比べる事が出來る。此れは彼が早くより支那に行つて居つたからであるが、長く支那に居らなくても入唐したものゝ詩文はどうしても入唐しないものゝ詩文よりはよろしいやうに見える。例へば菅原の家にしても菅公の祖父清公は入唐したからして菅公のものに較べるとよろしい。序ながら菅原家は編史事業に關係したのであるが、其の續紀等の序文は之れを唐文粹、文苑英華等の中へそつと入れて置けば、支那人が見ても日本人の作と云ふ事が分らぬ程巧いものである。
平安朝時代の詩文の集は凌雲集、經國集、文華秀麗集、本朝無題詩、本朝文粹、朝野群載等であるが、此の頃唐では詩風の變遷があつたのを日本人は如何に受け入れたかと云ふ事を述べて見よう。白氏文集は嵯峨天皇の時から行はれたと云ふ話もあるが、それは極めて稀であつたであらう。白樂天は同時代の元微之と共に一種の體を成し、之を元白體とか、或は其時代により長慶體とかいつて、その詩は頗る解し易いので、日本でも後には大いに喜ばれたのであるが、未だ嵯峨天皇の御製等の中には其の詩風を受けたものは無い。大體唐詩の時代を初唐、盛唐、中唐、晩唐と四つに分つ中、嵯峨天皇の御製などは
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