體の詩は菅公の孫文時などが此れを作つたのである。當時は遣唐使等が支那へ渡り、彼我の交通は有つたのではあるけれども、日本の流行はどうしても支那の流行よりは五六十年後れたのであつて、斯かる事は支那日本の文化の關係上面白い事である。
 次には平安朝時代に出來た書物の事に就て少し述べよう。勿論それは澤山あるが、今述べるのは現存して支那の學者に珍重される二三のものを撰り出したのである。其の一は弘法大師が詩文の作法を書いた書物に文鏡祕府論と云ふのがある。此れは今日では實に世界的の著作となつたのである。其の譯は唐の時には詩の作法やかましく、其れに關する著書も多かつたが、其れは主として試驗に應ずる爲であつたからして、詩賦に依て試驗する制が廢せられた後には其の作法も自然廢れる樣になり、書物も段々殘らなくなつたのであるが、幸ひ日本には大師が此書を書いて置いたので、唐の時代の詩文の作法に關する支那にもなくなつた著述が殘つて居るのである。又文鏡祕府論の中に唐の河嶽英靈集の事が見えて居るが、此の詩集などが日本の平安朝の詩集などの手本になつたのである。平安朝の後半期になつて、本朝文粹といふ文集が出來た、これは多分
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