學の影響を受けて發達して來たものであつて、弘法大師よりは後に出來たものである。吉備大臣の作つたものとする説があるけれども、其の頃、日本で梵語を知つて居る筈は無いから其の説は誤りである。一體支那の音韻學も、日本の語學も、梵語學から影響を受けた事が頗る大であつて、支那では字母の事が唐の時分から大分やかましくなり、三十六字母を作り、口の開合によつて此れを四十一に分つたが、支那の三十六字母の列べ方も、日本の五十音の排列の仕方も全く同樣であつて、共に梵語學から影響を受けた事を知るのである。此の支那の三十六字母は韻鏡の基となつたものであつて、音韻學は勿論支那自身に於ても漸次に發達して來ては居つたが、梵語學が入つてから、初めて明確になつたので、日本も同樣である。日本の五十音は支那へ行つて、梵語なり、梵語の影響によつて明確となつた支那音を研究した人によつて作られたので、斯樣に研究せられて、非常に明確になつた音を日本人が學んだから、日本の音も次第に明確になつて來たのである。それに就きて自分は嘗て某博士の陸奧の國名に關する意見を批評したことがある。某博士は陸奧を「ムツ」と訓むのは、元來「ミチノオク」といは
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