の後復た書籍を集めた時、今度集めた藏書目録を作つて置く必要があると云ふので作つたのが此の日本國現在書目で、宇多天皇の寛平頃に出來たものらしい。此書目は支那の目録學家にも大に珍重されたものである。又舊の冷然院の藏書中今日に至るまで燒けずに殘つて居るものゝ中に、文館詞林と云ふ書がある。此の書は唐の初めに編纂され、一千卷の大部のものであつたが、宋の初め頃から既に失せて仕舞つた。今から百餘年前、大學頭林述齋がその中四卷を出版し、佚存叢書中に收めて支那に渡し、支那の學者を驚かした事がある。殘つて居る分が全部三十卷ばかりで、高野山にあるものが原本の大部分である。
最後に漢文學の國文、國語に對する影響に就て述べよう。先づ日記類でいふと、元來日記は漢文で書くものと定つて居つたが、紀貫之が之を眞似てから土佐日記等の國文日記が現れた。又紀貫之の古今集序は元と其の姪淑望が漢文で書いたのを貫之が國文に直したものが國文の初めとなつたのである。斯く國文は漢文の趣向から發達して來たものであるが、此れ等は何人も知つて居る所であるから今は略してもつと外の事を述べて見よう。又國語に關することであるが、日本の五十音は梵語
前へ
次へ
全17ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング