のあること此の式の特色なりといへり、面相殊には鼻のつくりざまなども、目立ちて異なるやう覺ゆ。狩谷望之が古京遺文にて讀みたりし光焔背の銘、疑を正さんによき折と思へど忙しき見物なれば心に任せず。百濟王の獻じたりといふ觀音木像、丈九尺幅二尺餘、纖にして脩、柳絲の地に貼せるが若し、木像の四天王は佛壇の四偶[#「偶」は「隅」の誤りか]に在りて、直立して得物を執れるさま、捧げ銃を行ふ番兵に似たり、手脚弩張せず、顏貌も苦りてはあれどたけりては在らず、山口直作といへば、推古の世のものなるべし。折しも寶庫開扉にて眞僞は知らず、馬子大臣の畫などいふあり、金岡の畫といふもあり、「文」にて教へられしアツシリヤ風の模樣ありといふ騎馬にて虎を射るさまの人物を織り出したる錦旗は、四天王紋と寺にては傳ふるなり、金堂の天蓋なる技藝天女の像は此に陳列してあり。傳法堂の乾漆佛は戸外よりのぞきしのみ、夢殿の觀音は祕佛にて拜まれぬよし、中宮寺の如意輪觀音も、穗井田忠友が觀古雜帖にて摸本ばかりは見し天壽國曼陀羅も、容易くは拜まれずといふにて止みぬ、古寫經の屏風なども多かりしも仔細に諦觀せんひまなかりしをかこたんは、あまりに欲深くやあるべき。
寺傍の一旅店にて晝げはをへつ、寧樂につけば、日まだ高し。あとをつけ來る車夫、春日にや供せんなどいへど、先づ大佛へ行けとて、再たび毘盧遮那佛を拜しぬ。頭などは後の世の補修と聞けば、古さまならねど、蓮座などにはさすがに、天平の世の手澤存せずしもあらず、大殿は元禄の建築なるが、二百年の露霜にやゝ破損も出來しにや、足場しつらひて修繕と見ゆれど、大厦の傾くはこの柱かの梁の補修にて得支へなんや、覺束なし。博覽會には推古より天平、さてはなほ下れる世の佛像など少からず、舞樂伎樂の古假面など珍らしきもあれど、大方の見物人は、人魚の乾物、石川五右衞門が煮られし巨※[#「金+護のつくり」、第3水準1−93−41]をこそ目を注めて見るべけれ。殿を出でゝ再たび三月堂に上れば、梵天帝釋の温雅整肅にまします、裏手なる執金剛神の怒氣すさまじき、共に寧樂美術の粹とこそ聞け、乾漆の四天王、本尊は不空羂索の觀世音、共に天平のものなりとぞ、建築も當時のまゝなるは、東大寺境内にて正倉院を舍きては、この堂に留めたり。されど二月堂の清水の舞臺めきて、三十三番札所の一に列なれるこそ、この地の人も名所とはもてはやせ、この
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