堂をば、見物人にも案内せんとは思ひたらず、こゝを出でゝ戒壇堂へと車夫に命ずれば、やうやうに尋ねあてゝ、「アンタほりものしやはる方ですか」と問ひしも、可笑しき誤ながら理ぞかし。
[#地から1字上げ](明治二十六年八月十五日「亞細亞」第二卷第九號)

[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
附記 こは明治廿六年始めて寧樂に遊びし時の紀行なり、疎懶にして草を終へず、久しく時日を經れば、之を補成せんにも意なきに至る。其後浪華に在ること三年、南北兩京の名勝、探究略ぼ盡す、大和諸名藍の如き、率ね詣り觀ること五六回を下らず、往々十回以上に至る者あり、其の彫刻繪畫を渉獵して、大抵暗記す、加之月瀬の梅、芳山の櫻、皆一たび經渉す、今に至りて之を想ふ、前遊歴々、猶ほ目睫に在る也。
[#ここから4字下げ]
 ――――――――――
小夜ふけて春日の野邊になくしかは
    月夜さやけみつまこふらしも
いにしへの人も見きてふ春日なる
    三笠の山の月を見るかな
[#ここから2字下げ]
   ――――――――――
南都古佛北都臺、歴訪名山雙※[#「髟/丐」、第4水準2−93−21]摧、
到處雛僧能記面、笑言斯客幾回來、
   ――――――――――
     詩仙堂
天子呼來不渉川、東山堅臥號詩仙、
依然遺愛留書劍、小有洞中長有天、
[#ここで字下げ終わり]



底本:「内藤湖南全集 第一卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年9月15日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「涙珠唾珠」東華堂
   1897(明治30)年6月28日発行
初出:「亞細亞 第二卷第七號、第二卷第九號」
   1893(明治26)年7月15日、8月15日
※寧楽は、奈良時代の平城京の地、奈良のこと、古く「那羅」「平城」とも書かれる。(広辞苑より)
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月14日公開
2006年1月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング