よかりしも、竟に一本の仕込のステツキ三兩にて賣り付けられて、あとにて二人にて笑ひしなど、思ひ出す毎に可笑し。
汽車の湊町につきしは、又夜に入りき。[#地から1字上げ](明治二十六年七月十五日「亞細亞」第二卷第七號)
寧樂 二
法隆寺、藥師寺など、上代開化の寶庫、一見せざりしことのいかにも殘念なるに、次の日曜はいとよく晴れたり、俄かに思立ちて、友をも誘ふひまなく、湊町より一人汽車に飛乘る。法隆寺停車場にて下る、此より寺までは七八町もあるべし、五重の塔、岡巒にかたよりて、明かに指さる。法輪寺にも古き佛像ありと聞きて、先づ之より見んと、法隆寺境内を横ぎりて三四町にて達す。さすがに法隆寺までは、浪華あたりよりも、參詣もし、見物もせんと來る人ありと見えて、停車場にて同じく下りし男女十數人ありけれど、物好にこゝまでは來る者少ければ、車夫は寺僧に近付の人かと訝かり問ひ、寺僧は美術學校關係の人にやと疑なき面色にて問へり。十一面觀音は二丈餘りの木像、天平の古物にて、慈悲圓滿の相好、尊とく拜まれたり、金堂なる藥師佛の像は推古時代の作なるべしとぞ、天平頃のものと見ゆる小形の佛像は數多あり。寺は推古の御世、山背王等の建立にかゝる、荒れに荒れて、住僧など誠に口惜しき人物なり、かゝる例は此わたりの古寺に珍らしからざるべし。
車を還して法隆寺に至る、境内壯大にして、東西八町南北四町と案内者は語りぬ。三經院、今は大派本願寺に借して説教所に充つるとぞ、西圓堂、奉納の武器數知れず。金堂の建築は推古の世と傳ふれど、近頃の考にては天智帝の頃の再築ともいへり、その基礎を昔は盤石天より降りしとこそ尊がりしが、今は案内者さへ開けて、こは千二百年前のセメンにて候、白堊などには候はずと説明す、美術の御參考とて參觀する人多し、九鬼サンもよく出來てあると申されしとは、到る處の寺僧が誇りがにいふ言葉なり。
曇徴の筆と傳へし壁畫も、天智の世としては異人の作なるべし、博物館なる櫻井香雲氏の摸本にて髣髴を得たりしとは、又一しほの心地ぞする。堂内玉蟲厨子の扉に繪ける佛畫はまことに推古の世のものなるべし。藥師三尊、釋迦佛、金銅にて鳥佛師作のよし、所謂法隆寺式にて法輪寺金堂のもの同じさまなり、專門家は衣の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]に變化なく、顏と手とは割合に大きく、手指は鵞王手とて蹼やうのも
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