必然の理由があるものと思はれます。それはどう云ふ事かと申しますと、支那には丁度今から千九百年前に、其の當時迄あつた所の、凡ゆる書物の目録を書いたものがあります。其の大部分の書物は今日失くなつて居りますけれども、之からつまり今日の支那の文化と云ふものは傳統を引いて來て居るのであります。兎に角支那では前漢の末頃に、非常に立派な目録學者がありました、目録と云ふと古來の書物の名前を帳面に記する丈かの樣に考へられますが、支那の當時の目録學と云ふものは、本の内容に依つて分類し、批評する所の一種の學問であります、其の學問を支那で其の當時考へた人があります。即ち有ゆる學問の總論を目録に依つてやる事を考へた人があります、私は其の人の學問を大變尊敬して居ります、それが有名な劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の父子であります。此の人達が當時有ゆる本を見まして、さうしてそれを一括して批評したものがあります。即ち前漢書の藝文志の中にこの劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の父子の學問の大略が殘つて居りますが、此時の目録には書籍を六種に分類して居ります。それは六藝、諸子、詩賦、兵書、數術、方技、斯う云ふ六種であります。六藝と申しますのは經書でありまして、其外を五種に分類して居りまして、それに又各々此の中が幾つかの細い部となりまして、それに依つて一々評論したのであります。支那人は兎に角當時之だけのものを持つて居た、今から殆ど二千年前に之だけのものを持つて居たので、之は支那人が今から二千年前に立派な文化を持つて居た一つの證據であります。
印度人はどう云ふものであつたかと申しますと、最初今の佛教などの興る前に、四吠陀と云ふものがあつたと云ふことであります。今でも其本はあるのであります、其の本は多くは宗教的に出來て居ります。支那の劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]父子の時には宗教的ではなかつたのでありますが、印度の四吠陀は組織が全く宗教的に出來て居て、其の四つの内の半分通りは大體宗教に關したものでありますが、其の内の一つはやはり兵事、支那で云ふ兵書と同じ樣に兵事に關したものでありまして、其の他の一つが六藝と同じ樣な性質を帶ぶるものでありました。之は實は支那の前漢時代に比べまして、年代も古いし、それから記録もまだ十分に備つて居なかつた時でありまして、其の後
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