日本國民の文化的素質
内藤湖南
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勒鐸理加《レトリカ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の父子
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
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今日申します演題は「日本國民の文化的素質」斯う云ふ風な事を申上げることに致しましたのですが、私は此の問題は前から種々考へて居りますけれども、もう少し悠り考へを纏めようと思ひまして、今日迄何處でも之に就いて講演したこともありません。此の中の極一部分の事に就ては、多少言つたことはありますけれども、大體此の問題に就いては講演したことはありません、勿論まだ私の考へも十分はつきり纏まつて居ないのであります。又十分はつきりした詳しい材料の蒐集も出來て居りませんが、此の會が幸に杉浦先生の記念の會でありますから、兎に角斯う云ふ問題を、恐らく先生が生きて聽いて居られても、お叱りは蒙るまいと思ひまして、斯う云ふ問題の最初の講演を試みて見度いといふので、それで斯う云ふ題目に致しました。まだ十分考へを練つて居りませんから、定めし論旨にも支離滅裂の事があり、お聽き苦しい所もありませうし、御非難の點もあるかとも思ひますが、それは御遠慮なくお訊ねを願ひます。さうして私もだん/\之に關する考へを纏めて見度いと思ふのであります。
此の數年前から考へましたことは、凡そ國民の文化的の素質、即ち或る國民が文化を持つべき素質があるかどうかと云ふ事を考へるに就て、之を吟味する方法が先づ第一に考へらるべきであるといふことであります。今日でも世界に色々な國がありまして、各々相當な文化を持つて居りますが、然し其の根本から自分の國で自分の文化を發生して居る國民と、さうでないものとがあると思はれます。日本などは時として此の後の方の、文化を持たない國民の樣に誤解される傾きがあるのであります。現に日本には支那の留學生が澤山來て居ります、支那の留學生は盛んに日本に來て研究した揚句、往々にして輕蔑した考へを持つて居ります。それは何かと申しますと、日本は今日大いに進歩した國のやうに自惚れて居るけれども、日本と云ふ國は元來維新前迄は
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