と考へられて居つたのでありますが、平安朝頃までは、其の神代の記事に哲學的の意味をつける事はなかつたのであります。所が鎌倉の末期から足利時代に於て出來た神道は、特に日本紀の神代卷を佛教で解釋致しましたが、こゝで神道に哲學的意味をつける樣になつた。そこで日本は初めて自分の國の歴史を出發點とした哲學を有ち得ることになりました。
また和歌の方でありますが、和歌は即ち第一に國語の上に立脚致します所の文學であります。何れの國でも根本は其の國の國語が權威を持つのが文化の要素であります。國民が自分の國の言語の法則を神聖なものと考へることが、之が國民の有つ文化の第一の要素でありますから、何處の國でもあります。日本では國語の文法上、之も後になつて、新しい國學者、賀茂眞淵、本居宣長と云ふ人達から考へれば、それは間違つた文法であつたに違ひありませんが、兎も角も日本に國語の文法があり、又用語の制限があつて、其の制限に反すれば歌にならないと云ふことは鎌倉時代からあつたのであります。それが暗黒時代を經て、一つの文化的權威になつて、歌は二條家とか冷泉家と云ふ所から傳授を受けなければ歌が詠めないことになつたのであります。
又此の時代に於て最も貴ばれた本に源氏物語、伊勢物語があります。源氏物語は男女の關係を露骨に書いたもので、今日から見れば之を講讀することは危險の樣に思はれるものを、そんなに尊崇したと云ふことは不思議な樣に思はれますけれども、そこに日本人が支那の道徳でもなく、印度の道徳でもない或る要求を滿たしたものがあるからであります。殊に支那の道徳とは實にかけ離れた考へ方をして居る、伊勢物語にしても、男女の關係のだらしのない所を書いて居りますが、其の間に日本國民の僞らざる人情を書いてあると云ふ事を、日本人が尊びました。戰國の末から豐臣太閤の頃に亙つて、歌學で有名な細川幽齋に其の門下の宮本孝庸といふ者が世間の便りになる書は何が第一かと聞いた所が、それは源氏物語だと、それから又歌學の博學に第一のものはと問うた所が、それも源氏物語だと云つたと云ふことがありますが、それは表面男女關係のだらしのない小説の中に含んで居る深い意義を日本人が發見する樣になつて、それを一種の日本文化と考へたのであります。之は今日から見れば色々な考へ樣をしなければならない點もありませうが、然し其の間に支那でもなく、印度でもなく、つ
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