、皇室は最後迄文化の權威は握つて居られたのであります。其の他の事は其の學科の種類に依つて、皆公家達の家々に權限を任せて居ります。勿論それは皇室の配下である處から代々持ち來つた家業であります。例へば暦法、陰陽に安倍家とか加茂家とか云ふものがあり、それが代々持つて居たのでありまして、其の家が其の學問を代々傳へて、さうして其の學問は其の家から傳授を受けなければ正しいものと云ふことにはならなかつたのであります。
それから又丸裸の日本が文化の向上に、非常なる力を有つて居りましたのは、やはり神道の傳授です。此の時分の神道は、後の本居、平田といふ樣な人達の時から見れば、俗神道といはれて居るものでありましたが、然し其の當時の文化の上に於て必要な程度の解釋はせられるだけのものを有つて居ります。それは先程申しました耶蘇教の方でも、教會法等は羅馬法王が人間の魂を預つて居る、其の爲めに出來た教會の法律でありまして、此の法律を拒む者は、當時の國王でも何でも破門せられたのでありますが、どうもそれが間違つて居ると云ふので、西洋でも新教が出來ましたが、當時は其の教會法の下に服從しなければ正確な信仰といはれない。それと同じ樣に日本に於ても、兩部神道やら、唯一神道やらが如何に間違つてゐたかどうか知りませんけれども、兎に角其家の傳授を受けなければ正しいものとして承認されなかつたと云ふことは事實であります。それで神道は其の時分佛教の意味に於て解釋して、非常に考へ方が間違つてゐたと云ふ事は、徳川末期に神道を研究した人達の議論であります。これには種々の解釋の仕樣がありませうけれども、其の當時に於いては、佛教が日本に於ける最上の哲學でありましたから、最上の哲學に依つて神道を解釋したのであります。徳川時代の初から神道を儒教で解釋した人もあります。それから國學で解釋する人もありましたが、足利時代に於て佛教に依つて解釋すると云ふことは、つまり佛教が思想上の最上の權威であつたからであります。さう云ふことで暗黒時代の神道と云ふものは、殆ど完成してそれを握つて居たのが吉田家でありまして、それを日本中の神主に傳授した、此の傳授を受けなければ神道の權威がなかつたのであります、それで之は特に當時に於いて發明された所の一つの學科であります。つまり日本の古事記とか、日本紀とか云ふものは奈良朝時代からありまして、祖先の編成された歴史
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