期より南北朝中頃までは天才の出現に都合よき時代なれば、肖像畫も亦自然に其機運に應じて興隆せり。
足利時代は、義滿以後武家の制度確立し來ると同時に動搖減少し、中期以後は應仁文明より引き續ける亂世にして、動搖は激烈なりしも、此時代の亂世は藤原末期とは甚しき相違あり、動搖餘りに大なりしために、最下級のものをして最も勢力あるに至らしむることゝなり、文化とか、修養とかを少しも有せざる階級の跋扈する時代となれり。而して戰爭等に於ても、兵力の多數と、飛道具の如き技巧を要せざる武器とによりて行はれ、しかもそれが統率の才の不充分なる將帥に屬し、多くは群衆心理によりて妄動を續けし時代なり。されば元龜天正頃までは天才の出づべき素地も機會もなく、隨つて藝術も沈滯の氣分を脱せず。大和繪は前代の摸寫に止まり、支那の繪畫を極端に摸倣したりし北宗風の新派あれども、到底繪卷物時代の如き日本獨得の精采を認むべきに非ず。故に其肖像畫の如きも、つまり下級者の成上りの結果、其要求によりて肖像畫を多數に作りしものなれば、注文する方に全く鑑賞力なく、製作者にも藝術の能力を充分に具備せずして、肖像は他の繪畫と一樣に仕入物と墮落せり
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