。藝術が仕入物となる時代はその最も衰退を表す時代なる事は何人も明かに認め得べし。足利時代を以て肖像畫の全盛期と考ふる事は、社會の事情より言ふも、肖像畫の現存せる遺物を鑑賞する上より言ふも、事實とは非常なる相違あり。この故に余は日本の肖像畫の全盛期を、隆信一家が相續して中心となりし鎌倉時代を中心とせる時期に限ると斷定するものなり。
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(附記) 支那に於ては、元明以後、肖像畫は益※[#二の字点、1−2−22]形式に流れ、仕女の名匠として明代に仇英の如きあるも、肖像畫に精采を賦與する程の感化を及ぼさず、清朝の禹之鼎の如き、肖像を善くすといはれしも、要するに仇英一派の後勁たるに過ぎず。但だ乾隆嘉慶以後、思想の變化と共に仕女の名家輩出して、遂に改※[#「王+奇」、第3水準1−88−6]の如き新しき生氣ある仕女畫を生ずるに至れるが、此時代さへも肖像畫は遂に復活するに至らざりき。其の畫法の如きも、元代の王繹が寫像訣なる者を出せしより、一定の範疇に陷りて、其の圈外に跳出する者なし。故に元代に於ても、肖像畫にも南畫の風格を移入せし少數の試みありしも、遂に山水畫の如く發展するに至らず
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