祖像に近きものあれども、用筆等の點より見れば、餘程變化を來せるを知る。即ち盛唐頃に一大變化を經たる後の肖像畫の代表的のものとして視ることを得べきものなり。此唐代肖像畫の傳來は、多分當時吾國の肖像畫に影響して、爾來數百年間その風格は繼續したるものならんと思はるゝが、此風の我國製作肖像畫としては、高野山普門院の勤操僧正像等は最も適切なる例なり。
 其後藤原中期頃より一般的に日本の文化は自國の特色を發揮し、文學に於ても國文の全盛となりしと同時に、藝術も我國の特色を現はせしならんが、現存せる遺品によれば、藤原時代の繪畫としては、佛畫を除きては觀るべきものなし。花山天皇などの後意匠より新しき畫風を生ぜしとの傳説はあれども、之を遺品によりて證明することを得ず。藤原末期より鎌倉の初期に入りて、こゝに著しく日本特色の繪畫遺品を多數に見ることを得。即ち繪卷物等これなるが、隨て肖像畫に於ても、新しき日本風の肖像畫といふべきもの急に發達したり。尤も、かゝる時代は過渡期なれば、當時の肖像中にも唐以來相傳の手法によりしものもあり、又新しき手法にて畫きしものもあるは當然の事なるが、新しき手法は即ち最も時代の特色を發揮せるものとして注意すべく、その時代の代表者ともいふべきは藤原隆信なり。
 今日隆信の遺品とさるゝものゝ中、最も有名なるものは、高雄神護寺の後白河法皇・平重盛・源頼朝・光能・文覺上人の肖像畫なり。これ等神護寺所藏のものは、既に鎌倉時代末頃より隆信の筆として、以上の人々の肖像なりと傳へられしものなるが、其畫の主名に關しては頗る疑を插む餘地あり。其點に就ては後に論及すべきが、其中の或物はたしかに唐代肖像畫より全く脱離したる新しき手法のものあることは明かにして、特に重盛・頼朝と稱せらるゝ二幀は此種類に屬す。後白河法皇・文覺上人はこれに比すれば頗る手法の相違あるものにして、前者が隆信の眞蹟とすれば、後者は果して隆信の筆なりや否やを疑はしめ、後者は其手法になほ唐代肖像畫の遺風あるかの如き心地せらる。尤も此等の肖像畫を批評するに就いて、從來の鑑賞家は其服裝に關して議論せるものあれども、それは當を失せり。隆信は當時の「似せ繪」の名人と言はれし人なる事は、九條兼實の『玉葉』にも見ゆる所にして、其長ずる所は人物の面相にあり、服裝等は土佐光長等が畫き足したるものといはる。要するに隆信は日本肖像畫の新時代
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