が、何時頃に變化を來せしかは明瞭ならざるが、唐代に於て、すべての藝術の一大變遷期が盛唐即ち玄宗皇帝の開元・天寶頃にある事より考へ、且つ繪畫の中にても山水畫の如きが當時王維・呉道玄らによりて變化されし事より考へて、肖像畫も亦其時分に變化したるに非ざるかと思はる。これに就いて參考となるものは、やはり近頃支那にて出版されしものに、『中國歴代帝后像』と言ふ本あるが、此本は、元來清朝の宮中に南薫殿といふ處ありて歴代帝后の像を藏し、それに關して清朝の胡敬が『南薫殿圖像考』を著せしが、其記事と『歴代帝后像』とが、大體に於て一致せる所を見れば、帝后像の寫眞のもとが、南薫殿の原本なる事を推測し得べし。然るに、この『帝后像』には唐より五代までの間の畫像は五枚位にすぎずして、しかも其畫が果して唐代の原圖なりや否やを知りがたし。宋以後のものは確かなるものゝ如し。支那にはまた、從來石刷にて歴代の君臣の像を集めしものあり、自分の所藏する最も古きものは元代のものなるが、それは墨本なり。これも唐以後の分が大體に於て『歴代帝后像』に一致するを見るに、其原本が一なりし事を考へ得べし。墨本の唐以前の分は、やはり閻立本の圖に一致する點あり、これも根據あるものならんが、唐代の肖像の特色を研究する資料としては猶ほ不十分なる點あり。此墨本は其後段々に其數を増加して、古代の伏羲・神農等の帝王を加へしを以て、想像畫と肖像畫との混雜せしものとなれるが、自分の所藏する元代の本はこの想像畫を加へざるも、明初の墨本、及び日本に於て慶長頃に『君臣圖像』として明版より複刻され、更に幾度も翻刻されしものは、皆想像畫を加へあり、ともかくも廣く行はれしものなるが、新舊板を參照して、細心の注意をなせば、肖像畫がどこまで古きものが傳寫されしかを知る材料には供し得べし。
 日本には、唐代の肖像畫を知る上に於ては、此の如き不確かなる材料によるよりも、更に確實なる資料に據る事を得。そは京都の東寺に藏する所の眞言七祖像の中、五祖像にして、唐の李眞の筆に成れるものなり。李眞は支那の所傳によるも當時有名なる畫家にして、しかも大師がその人に請うて畫かしめ、以て將來されしものなる事明かなれば、これを唐代肖像畫の標本として少しも差支なし。此五祖像と太子像とを比較すれば、明かにその相違を見るべし。尤も單に畫面の人物の配置より言へば、閻立本の帝王圖の中にも五
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