日本の肖像畫と鎌倉時代
内藤湖南
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我國の繪畫が主として支那に起原せる事は勿論にして、支那の繪畫が時代によりて變遷ある毎に我國にも影響せし事は疑なし。其中に於て、肖像畫も殆んど現存の繪畫の開闢期より既に存在せしが、その肖像畫が日本に於て最も發達し、獨得の技倆を發揮せしは果して何時代の頃なりや、これに就ては、史學者、美術史家等の間に既に議論せられし事なるが、こゝに一己の私見を述べんとす。
其前に少しく日本の肖像畫の變遷の概略を語る必要あり。肖像畫中、最も古く且つ最も有名なるものは、もと法隆寺の所藏にして現に帝室御物たる唐本の御影と稱する聖徳太子像なり。其畫像は、百濟の阿佐太子の筆と傳へらるゝが、勿論これは確據あるに非ず、たゞこの畫が支那の六朝時代の肖像畫の風を傳ふるものなる事は、近年になりて種々なる材料の發見によりて明かにせられたり。尤も此唐本の御影の現存せる本が眞本なりや摸本なりやは疑問の存する所にして、自分にも多少の意見なきに非るも、今の所論に關係なきを以て省略す。
支那、福州の林氏の所藏する『唐閻立本帝王圖』なるものあり、其の寫眞版が近頃我國にも渡來せしが、この本は前漢の昭帝より隋の煬帝までの十三人の肖像を集めしものにして、その各帝王像の構圖が頗る聖徳太子像に似たるものあり、即ち聖徳太子像の中央に本人あり、左右に二王子と稱せらるゝものを畫けるは、『閻立本帝王圖』の中、九點までが、みな此と同じ構圖なり。閻立本は唐初の人にして、此等各帝王の時代は數百年に彌れるを以て、此等肖像は單に想像によりて畫きしものならんとの疑を生ずれども、余の所見を以てすれば然らずして歴代の古き肖像畫ありしを摸寫し集成したるものならんと信ず。近年フランスのペリオ氏が敦煌にて寫したる多數の寫眞中にも、これと同樣に三人並び立てる人物像ありしが、多分佛像を供養したる地方の名族等の肖像として畫きしものならん。ともかく、六朝までの肖像畫と聖徳太子像とが相互に關係ある事は明かなり。
唐の肖像畫
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