の文の方は心當りを搜索して、發見し得られるものとの、手がかりだけはついて居る。此三著述が揃つたならば一度仲基のお祭でもして見たいと心掛けて居るが、兎も角仲基が町人であつて儒佛國學に通達して居つたことは我々の感嘆おかぬ所である。彼れは其の出定後語に於て、學問も國相應といふことがある、即ち天竺は幻、支那は文、などゝ批評して居るが、甚だ卓見であつて、定めし翁の文には國學に對して卓見を示して居ることだらうと思ふ。而も富永一家は仲基のみでなく、其弟の蘭皐は池田の荒木といふ家に養子に行つたが、當時池田には荻生徂徠の門人田中省吾なるものが隱れて居て、それから教へを受けたらしい。かくの如く富永一家は親子兄弟揃つて學者であつた。出定後語は仲基が黄檗山にカノ藏經の校合を手傳ひに行つて居る間に藏經を讀んだから作れたものであると言ひ傳へられて居るが、昔から僧侶には藏經全部を讀んだ人は決して尠くはない、けれども仲基程に卓見を持つて居た人は一人もないのであるから、藏經を全部讀んだお蔭で出定後語の樣なエライ本が出來たなどゝいふのは、僧侶輩の僻んだ根性から言つたことで採るに足らぬ妄言である。大體印度の佛典といふものは
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