いと思ふ。懷徳堂の此規約も後にはだん/″\弛んで父子に相續した樣な事もあるが、其の創立當時の五同志の時代には斷じてなかつた。かくの如く懷徳堂の組織は門閥の素地を作るをさけた頗る民衆的解放的のもので、本當の大阪の漢學といふものが大阪に根柢を作つたのは全く此の頃からである。道明寺屋吉左衞門は假名をよく書いたといふことであるから、漢學ばかりでなく書も能くしたらしいが、此の人たちが大阪の學問の根柢を作るに與つて力があつたことは言ふ迄もない。其の吉左衞門の子富永仲基の學問は甚だ解放されたものであつた。三宅石庵の學問は前にも言つた通り朱子でもなく、王陽明でもない、町人には頗る便利な學問であつたが、漢學を眞に批評的に考へるといふ風は町人の學問としては全く此の仲基によつて創められた。
 又仲基は佛教に關しても造詣頗る深く著述もある位である。仲基は先づ「説蔽」なる著作に於て儒教を批評し、「出定後語」を著はして佛教の批評をしたが、説蔽を書いたが爲めに其師三宅石庵から破門された。尚仲基は「翁の文」といふ著述に於て國學に關する意見を發表したものと思はれる、不幸にして翁の文は説蔽と共に絶えて今に見當らないが、翁
前へ 次へ
全17ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング