大阪で教授をしたのが先づ始めであつて、それ迄にも學者がなかつたわけではないが、眞に町人の要求から興つた漢學は是を以て嚆矢とする。石庵の學問は鵺學問といはれた位で、朱子派でもなく王陽明派といふでもなく、朱子も王陽明もゴツチヤにした樣なものであつたが、町人の要求する所は朱子でも、王陽明でも何でもかまはぬ、唯道徳の修養になればよいのであるから、石庵の樣な學問でも歡迎を受けたものである。彼の懷徳堂を開いた五同志の如きも皆大阪の町人であつて、是等町人の要求するところは道徳の修養の爲めである以上、主として經學の方面であつて、詩文の方はどうでもよい。當時の漢學は先づ大要斯樣な程度のものであつた。懷徳堂の規約を作つたのは道明寺屋吉左衞門(富永芳春)といふ人であるが、其の規約に書いてあるところによると、親が學主であれば其子は絶對に學主となることは出來ないといふのが原則で、若し親が學主を他の人に讓つて、その後に於て其子が修業して良くなれば、その讓られた他の人から其子に學主を讓ることは出來るが、あく迄も血統からの相續を排斥して居るところなど、今の選擧制度の一として留任や重任を禁じて居る樣なものと相比べて面白
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