歌學をやつて、二條冷泉家に反抗したが、我國學史の位置からいへば到底契沖阿闍梨の比ではない。二條冷泉家では古今集の傳授を其の繩張りとして甚だ喧かましいものであつたが、下河邊長流や契沖はその喧かましくない萬葉集を解釋しようとし、恰かも其拔け道から解放された歌學をやつて、二條冷泉家以外に旗幟を樹てた。これは研究法の方の話であるが、其の他に先達物故された法學博士、文學博士有賀長雄君の先祖有賀長伯一家の歌學といふものがある。此の方は公卿のやる樣な歌を地下人である大阪でもやりはじめたものであつて、これから後公卿のやる國學を地下人がやることになり、歌ばかりでなく地下の蹴鞠とて公卿のやる蹴鞠迄やつて見た。これは研究法の解放といふわけではないが、公卿のやる事を地下人がやるといふ事になつて、畢竟公家の學問が地下に迄解放された事となつたもので、此の事實も大阪の文化の發達の上に忘れてはならぬことである。勿論かゝることは我國全體から見て學問の進歩の上に大した影響はなかつた事であるが、大阪としては忘れることが出來ない、この頃は元禄時代に相當する。
 漢學の方はこれとは少し遲れて享保頃からで、懷徳堂の元祖三宅石庵が
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