かけ三年つゞけてうつて尚流行つたが、國姓爺後日合戰を出した時にはそれ程人氣を呼ばなかつたといふことで、茲に於て近松は一轉して世話物を書くことになつた。勿論前から少しは世話物もかきつゝあつたが、專ら世話物で當てたのは享保初年以後であつた。かくの如く此人の一代の作物の傾向――古典的から解放的に――で大阪の文學の變り目がよく判るわけである。以上は軟かい方の文學に就ての話である。
 硬い方の學問の内、國學の方からいふと先づ契沖阿闍梨を擧げねばならぬ。契沖の前には下河邊長流といふものがある。其の目的とするところは古典であるが、其の研究法は解放的であつた。大體此の頃の國學特に歌學は足利時代からの繼續で、家元の許しを得なければ何事も出來ない、家元と變つた行き方をするとすぐ破門されるといふ具合で、學問の仕方は甚だ拘束されたものであつた。是れは今日の考へでいへば智識階級の自衞策であつて、自分の學問を擁護する爲めに、之を無暗に解放せないといふことである。徳川時代でも此の頃迄は此の拘束された學問の仕方を有難がつたものであるから、全く解放的の氣分はなかつたもので、是より前に江戸では梨本茂睡といふものが解放的な
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