竹が出て、而もその如竹は大阪に於て漢學を復興したとはいへない迄も、相當大阪の學問に貢獻したといふことは、甚だ不思議な因縁といはねばならぬ。如竹は間もなく大阪を引き上げ、天囚君は三十年も大阪に居つて愈※[#二の字点、1−2−22]此度大阪を去ることゝなつた、これは西村君の學問が大阪に合はないのであらうか、私が考へるより大阪の諸君にお尋ねするのが至當であらう。
幸田君の大阪市史によると、大阪に於ける初期の漢學者は大抵醫者を兼業して居つた。古林見宜でも北島壽安の如きも醫者兼業であつたといふが、是は大阪ばかりではなく一般當時の漢學者でも飯を食はねばならぬところから飯の種は醫の方でやる、そして食ふ心配なしに學問をやるといふところから兼業をしたもので、伊藤仁齋の頃迄其兼業が善いか惡いかといふことについて説があつた位であるから、大抵の漢學者は醫者を兼業して居つたといふことを知ることが出來る。然しながら今迄述べた樣な學者は、商賣の都としての此大阪の畑に育つた學者ではない、そして是れから暫くの間は學者の種は繼續せなかつた。
大體文化といふものが大阪に盛になつたのは元禄以後である。それは大阪ばかりでは
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