ものである。徳川時代に於ける大阪は重要な場所であつたが、幕府の御膝下といふのでもなく、唯經濟的都市、商賣の都として重要な都市とせられ、而してこの商賣の都といふことが時の文化に貢獻した譯であつた。元和の元年に豐臣氏が亡んで間の無い間は、大阪には學問らしいものがあつても、それは徳川時代に於ける商賣といふ點から出發した學問ではなく、豐臣といふ武家によつて創められた大都會といふ關係に基く學問の風であつた。この頃に於て、今日では學界からも一般世間からも注意を逸して居るが、漢學の方では、かなり注意を拂ふべきものがこの大阪から出て居る。それは如竹散人といふ人であつて、この人は足利時代あたりから引き續いた宋學の正統を受けた人である。彼の薩摩の國の人で有名な文之といふ僧侶があつたが、是が四書に訓點をつけた元祖であつて、彼の藤原の惺窩の如きすら文之から盜んだものであるとさへ傳へられる位であるが、如竹は此の文之の學問を承けたのであつた。この如竹は大隅の屋久島の産で、文之點の四書を出版した事に於ても有名である。丁度明治大正の時代に於て大阪に漢學を復興したのは西村天囚君で、同君は種子ヶ島の生れで、その隣りから如
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