いふものは、勿論道を載せて居る所の書であるが、しかしその實、六經に載せてゐる所のものは皆な器である。六經といふものは古來の聖人の前言往行であるが、その前言往行といふものは、皆な器によつて現はれて居るので、それを記載したのが六經であるから、六經が道を現はすには、器によつて之を現はしてゐるのである。然るにその古代に於ては、その器によつて教を立てて、即ち治教、政治と教とが二つに分れず、官と師が合一であつて、即ち政治と教育とが一致をして居つたから、教へ、學問は政治の實際の器によつて現はれ、學ぶ者がその器によつて直ちに道に接することが出來たので、器の外にこれが道であるといふものを示されなくても、自然の器によつて道を會得したのである。然るに周の世が衰へた頃からして、治教が二つに分れ、官師が二つに分れることになつたので、その器を著述の上に現はしてさうして教へとしたのが即ち孔子であつて、ここに至つてその文字を以て著述とすることになつた。で孔子は或る時は「予れ言ふ無からんと欲す」と言つた。それはこの世の中にありとあらゆる器によつて自然に道が現はれて居るのであるが、之を六經に載せるに就ては、言ふ所あらざる
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