大學などでも頗るこの人の學問を鼓吹したが、その爲めにその著述も我邦では割に多く讀まれるやうになつた。十數年前に端なくもその全集の未刊本を得て、之を通讀した所から、この人の年譜を作つて發表したのが本《もと》になつて、支那の胡適といふ人が更に自分の作つた年譜を増訂して世に公にしたので、支那の新らしい學者の間に注意されるやうになつた。その前から支那の舊學を修める人でも、張爾田・孫徳謙などといふ人は、その學風を慕つて特別に研鑽をして居つたが、最近になつては胡適の外にも精華學堂を出た姚名達並びに四川の學者で劉咸※[#「火+斤」、472−9]といふ人などが、最も章氏の學を發揮して、各※[#二の字点、1−2−22]著述を公にしてゐる。今日ではこの人の學問を特別に鼓吹する必要もない程になつたけれども、以前はその學問が一種の勝れた特色があることは一般に認められず、或は多少認められても、その眞意を了解するものが少かつたので、自分も之を鼓吹したのであつた。
今日でも、乾隆嘉慶年代に於て、かくの如き卓拔な一種の學問をしたといふことは、依然としてその價値は失はれないのであつて、その學問の淵源は、勿論古く漢代の
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