劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1-86-32]、唐代の劉知幾、宋代の鄭樵などから出て居るとはいへ、章學誠獨自の極めて透徹した前人未發の考もあつて、殊に史學を標榜しては居るが、あらゆる學問を方法論の原理から考へるといふことは、類ひなき卓見といつて差支ないのである。でこの人の學問は理論の組織が頗る細密であつて、その組立てた方法に從つて研究して往かなければ理解がしにくいから、之を短い時間で説明するといふことは頗る困難であるけれども、試みにその根本になる所の原則だけを説明して、その學風の一端を紹介して見たいと思ふ。
一般の學者からは、この人は史學家として見られてゐるのであるが、本人の考では、その著述の表題にもある如く、文史に關する原則の研究を主としたのであつて、文史といへば大體に於て著述の全體に渉るのである。唐書の藝文志には、文史類を廣義の文學評論の意義に用ひてゐる。文史通義といふ意味は、今の言葉で言へば、著述批評の原論ともいふべきものであるが、勿論この著述即ち思想の表現の第一の對象となるものは道である。文史通義の原道といふ篇の中に、道といふものをこの人は説明して、「道なる者は、萬事萬物
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