の他の歴史は皆家學であつて、親から子に傳はつて、澤山の材料を如何に處理すべきかが十分に考へられ拔いた上で出來上つた著述であるから、それで尊いのであるが、唐時代からして一度に澤山の學者を寄せて、それに色々仕事を分擔させ、又それを總括する人があつて、さうして纂輯する方法で歴史を作るといふことになつてから、著述の一貫した精神がなくなつて、その史學といふものは衰へたといふ考へ方をして居るのである。
この人の學問にはこの外にも色々な題目に亙つた考へがあるが、殊にその中で史學の分派として最も大切なのは方志の學といふものである。即ち地方志の學問である。地方志の學問には章學誠は古來にない一家の組織立つた考へを有つて居つて、之に就ては當時の有名な經學者戴震などと全く反對の位置に立つて、論難をした。地方志を書くに、紀傳體に志を書くこと、掌故といふもの即ち律令典例などの如きものを書くこと、それから文藝に關することを書くこと、この三つの體裁を備へて、さうして地方志が一般史の材料になるやうに著述をして置くといふことの必要を主張した。當時の地方志を書いた多くの人が、單に地方志を沿革地理を主として書いたのとは違つ
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