にしたのである。その後、班固以來、紀傳體の斷代の歴史が續いたが、宋の司馬光に至つて、又左傳と同じやうな編年體の通鑑を作つた。然るにその後になつて、南宋の袁樞といふ人が通鑑紀事本末といふものを作つた。歴史の體は古來かくの如く變化をして來てゐるが、この紀事本末の體の歴史が最後に出來たといふのは、これ即ち一番最初の尚書の體裁に復つて來たのであつて、袁樞その人は勿論さういふ大したえらい見識を以て書いたのでなしに、單に通鑑の記事を、一つ一つ事件を纏めて記憶する爲めに、便宜上書いたに過ぎないのであるけれども、歴史の發達の順序としては、かういふつまらない人の著述でも、自然に古代の最上の著述の趣意に合するやうになり來つたのである。章學誠のかういふ見方はつまり言はば、最近の歴史の體裁と自然に合して居るのであつて、今日西洋の有名な著述でも、すべてこの紀事本末の體で書くことになつてゐるのであるが、歴史がさうなるべきものだといふことは、章學誠は百五十年前に於て既に考へて居つたのである。
章學誠は又詩教の篇を書いて、あらゆる著述は支那では戰國の時代から初めて盛んになつて來た。章學誠の意見では、戰國の文は、源は
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