ことはさういふ意味でないのであつて、六經は皆古來の前言往行を記録した所のもので、即ちその聖人の道を載せる所の器を現はしたものであるといふ意味である。例へば章學誠は「易教」といふ篇を書いて居るが、それには易は即ち周禮の器である、易の尊い所以は、それが古代の聖人が之を一種の禮制の道具なりとして用ひた所の、その遺法を傳へた書であるからである。易の如く古の聖人が實際使つた、器を記載した本は、さういふ來歴即ち歴史を有つてゐるから尊いのであつて、後の人が易の眞似をして作つた例へば揚雄の太玄とか、司馬光の潛虚とかいふやうな本は、一人の智慧で實際古代に行はれた實跡も何もないのに、妄りに製作したものであつて、そんな來歴といふものを有たないから、少しも尊ぶに足らず、これが妄作と云つてよいものであると言つてゐる。
それから章學誠は又「書教」といふ篇を書いて、記録の法を論じてゐる。その言葉に「三代以上。記注有[#二]成法[#一]。而撰述無[#二]定名[#一]。三代以下。撰述有[#二]定名[#一]。而記注無[#二]成法[#一]。」と言つてゐる。これは記録の方法に關する議論であつて、殊に歴史を著述として見る上に
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