に、これが最初の立言者の眞の著述であつて、その附け加へたものは皆後人の僞作だといふ風に判斷をするが、その判斷は當つて居らぬ。つまり前の立言者に對して後の繼續者が擴充して書いたまでであるから、眞僞の議論をその間に加ふべきものではない。その立言者とその繼續者との關係によつて、その議論の發展を見るべきものである。
 これが大體に於て言公の論の主旨であるが、章學誠は六經その他の著述に就て、一々事實を指摘して、古代の著述の批判を示してゐる。これは古人の著述を批判する方法として、一つの新らしい見方を出したものであつて、經學史學の研究法に於て究めて重要な考へ方である。
 第二には、章學誠は「六經皆史なり」といふ標語を出して、これが支那の學者一般に非常な衝動を與へたものである。六經皆史といふことに就ては、時としては經學者などの誤解を招いて、その反感を買つたことが少くない。經學者は、經といふものは總ての著述の上に一段高く立つて居るもので、之を史といふ風に見るのは、何か經を汚したことのやうに考へて、聖人の立言である經と後世の學者文人の書いた史と同じ位に置いたやうに誤解することがある。章學誠の六經皆史といふ
前へ 次へ
全23ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング