の然る所以にして、而して萬事萬物の當に然るべきにあらざるなり。人の得て見るべきものは、則ち其の當に然るべきのみ。」と言つてゐる。この人はその道の發生して來る順序を考へて、道は天に生じ、天地が人を生ずれば、斯に道があるのであるが、それだけでは未だ形に現はれない。道の形に現はれるのは三人居室から始まる。三人室に居れば、そこに分任、今日の言葉で言へば分業といふものが生ずる。或は各※[#二の字点、1−2−22]別に事を司る、或は更代の仕事をするといふことになるが、さうなつて來ると均平・秩序といふことが出來る。平等と秩序とが紊れることがあるので、年長者をしてその平を持せしめる、即ち裁判をするといふことになる。それからして長幼尊卑の別も出來、それから什伍千百といふやうに數が殖えて、さうして各※[#二の字点、1−2−22]組が分れるといふことになつて來ると、各※[#二の字点、1−2−22]その上に才のすぐれた組の頭が出來、さうして更に徳の盛んなものを推して之を統治するといふことになつて、そこに君となり師となる者が出來て來る。
かくの如くして道は段々發展して來たのであるが、支那の歴史としては、法が積み美が備はり、唐虞の時代に至つて善を盡した。殷は夏に因り、周は殷に鑑み、周公に至つて大成した。周公が大成したといふのは、周公はもとより聖人であるけれども、しかしその大成するのは周公の智力によつて能くしたのではない。その時會が然らしめたのである。古來の聖人で集めて大成したといふのは、勿論周公獨りであるが、これは時會が周公をしてさうさせたので、周公自らも、自分が集めて大成する時會に當つたといふことを知らずに自ら大成したのである。然るに支那では、孟子の如き人は、集めて大成したのは孔子だと言つてゐるが、今自分は周公を集めて大成した人だと言へば、孟子の説と違ふやうに考へられるであらうけれども、それは必ずしもさうではない。勿論孔子も集めて大成した人であるが、周公の集めて大成したのは道であつて、孔子の集めて大成したのは、周公の道を教へとした所に存するのである。
これらの由來を眞に理解しようと思へば、道と器との區別を知らなければならぬ。易には「形より上なるもの之を道と謂ひ、形より下なるもの之を器と謂ふ。」といつてゐるが、道といふものは器を離れて存するものでない。さうして孔子の教を載せてゐる所の六經と
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