章學誠の史學
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)本《もと》になつて、

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+斤」、第3水準1−85−14、471−2]

 [#…]:返り点
 (例)記注有[#二]成法[#一]。
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 清朝の乾隆嘉慶の時代は考據の學が全盛を極めた時であつて、經學は勿論史學に於ても考據の大家たる錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]・王鳴盛などといふ人が出て、史學の風潮を全く考據に傾けたのであつた。然るにその時代に於て、浙江の紹興府から一人の變つた學者が出た。さうして一代の風潮の間に獨立して、史學を考據の方法に據らずして、全く理論的の考へ方から研究したのである。その人が即ち章學誠である。
 この人はその生立ちからして少し普通の學者とは變つて居つた。その幼時には極めて遲鈍であつて、至つて記憶が惡く、十五六歳頃、その父が地方の知縣をして居つて、家庭教師を雇ひ入れて學問をさしたが、僅か數百字の文句を暗誦することにも非常に困難を感じた位であつたが、そのくせ何か意見はもつて居つて、文章も下手であるけれども、自分一己の理窟を立ててものを書き、家庭教師などの言ふことは聞かない。殆ど持てあまされた程であつたが、二十一二歳位からその學問がその長所を發揮して來て、殊に一己の創見によつて著述することに興味をもつて來た。進士の試驗には首尾よく及第したが、その學風もまたその人と爲りも餘程變つて居つたので、官途の出仕も出來ず、一生不遇に暮した。しかしその間に著述した所の文史通義・校讐通義といふ本は、まだ出版せられない當時からして、既に有識者に認められ、之を好む人は非常に崇拜して、その一文の出づる毎に皆之を寫し傳へて持つて居つた程であつた。それで歿後その子によつて著述は出版せられ、幾度も版を重ねたが、最近數年前に至つて、その全集を出版する人があつて、今ではその學問は非常に光を放つて、殊に新らしい西洋の學問などを修めた人々に尊重せられるやうになつた。
 自分はこの人の文史通義・校讐通義を讀んだのは明治三十五年が初めてで、その時に大變面白かつたので、本を二部杭州で買つて、一部を當時支那留學中の狩野博士に贈つた。その後とも、
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