、崇神・景行の頃に、征伐の結果之を歸服せしめたのは事實である。然るに神代紀に載つて居る傳説では、最初から天照大御神と素戔烏尊とが兄弟であり、又天菩比命も天照大神の子であるといふ風に神話が形作られてある。しかし其の天照大神から崇神・景行までの御歴代の數を、出雲國造の系圖に傳へて居る天菩比命から出雲振根までの代數に比して、この代數が信ずべきものとすれば、其れによつても二つの系圖が同じ年代を經て來たのでないといふことが推斷される。よつて事實と傳説との間に幾許かの變化を經て來たものであるといふことが考へられるのである。
今一つは肥後の阿蘇氏の先祖のことであるが、景行紀によると、天皇が肥後の國に行かれた時に、阿蘇都彦・阿蘇都媛といふ神が、人に化《な》つて現れたといふことになつてゐるのである。其記事の模樣では、始めて行幸された國であつて、二神も皇統と何等の關係のあつたらしい形跡は見えぬ。然るに一方に於て、古事記には、綏靖天皇の兄神八井耳命は阿蘇君の祖なりとあり、又舊事紀の國造本紀には、崇神天皇の御代に、神八井耳命の孫の速瓶玉命を阿蘇の國造に定め賜ふとあつて、神八井耳命の子は健磐龍命と云ひ、延喜式の神名帳に祭られて居る神であるといはれてゐる。然るにまた國造本紀に、神八井耳命の孫の建五百建命を、崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はつたと書いてある。この建五百建命と健磐龍命とは同じ神に違ひないが、話が兩方に分れて居る。兎も角、阿蘇の先祖は神八井耳命から分れたといふことになつてゐて、其國造に立てられた二人の命は、景行天皇よりも以前になつてゐるのである。されは其間に矛盾が種々あるといふことが明かである。是等も一種の同源説であつて、阿蘇の國造が大和朝廷に歸服する時に出來上つた、便宜上考へられた傳説が、又種々に變つて傳つたのである。
最も肝腎なのは、物部氏の先祖たる饒速日命と神武天皇の先祖たる瓊瓊杵尊との關係であつて、神武天皇が大和に入られた時、互に其の寶物を交換して見て、同祖の末孫なることの證據が判つたので、饒速日命は長髓彦を殺して神武天皇に歸服したといふことになつてゐる。
總ての古代の傳説の中には、是の如き同源説が屡々應用されてゐるのであつて、歴史家は動もすれば其説に拘泥して民族の關係などを研究しようとするが、傳説と事實との間には如何なる變化があるかといふことを證すべき材料が乏しい爲
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング