女眞種族の同源傳説
内藤湖南
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)契《せつ》の母が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)合蘇※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)別れ/\になつて
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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滿洲の各種族の中で、古くは金國を形作り、後には清朝を出した所の女眞族は、或説には既に唐の初頃から現れて居ると云ひ、或説には五代に始めて知れたとも云はれてゐる。要するに其の種族の事情が分明になるやうになつたのは、契丹との接觸から起つたのであつて、契丹即ち遼の時代には、女眞種族を大體三通りに分けてあつた。一つは生女眞[#「生女眞」に傍点]、一つは熟女眞[#「熟女眞」に傍点]で、今一つは非生非熟女眞[#「非生非熟女眞」に傍点]である。文獻通考、大金國志或は契丹國志などによると、生女眞といふのは、即ち契丹種族に化せられぬ所の、在來の風俗を守つて居つた女眞で、主に今の松花江沿岸地方に居たのである。非生非熟女眞はその南方にいて、即ち松花江の支源に當る輝發江の沿岸に居た者をいふのである。熟女眞といふのは、契丹の太祖阿保機時代に、女眞が寇をすることを恐れて、女眞の豪族數千家を分けて遼陽の南方に置いた。即ち今の滿洲の復州・岫巖地方に當る處に置いたので、之を合蘇※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]とも曷蘇館とも稱して居た。曷蘇館といふのは、滿洲語で藩籬といふ意味に當ると云はれ、契丹人が生女眞を防禦する藩籬として之を用ひたのだと云はれてゐる。
生女眞は騎射が非常に上手で、地が方千餘里、戸數が十餘萬あり、それが皆山谷の間に住居してゐると云はれてゐるが、曷蘇館といふのは契丹に歸化した所の女眞人であるけれども、其生活の爲方はやはり生女眞と同樣であつて、遼陽以南の土地に遷されてからも、依然として山谷に住居して居つたらしい。
此の女眞人が生熟二種族に分れたのは以上の如き因縁で、是は當時相應の文化を有し、文字をも使用してゐた契丹の所傳であるから、正確であるに相違ない。
然るに此の女眞人が後になつて金國を興した時に、生熟女
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