たのは、事實に於ては、其敵たる契丹人の壓迫を受けて、一部分が移住させられたのであるにも拘らず、後世になると、僅か百餘年を經過する間に、既に眞の事實を忘れて、兄弟が個々別れ/\になつて、高麗から移つて來たといふやうな話に變化して居る。而してこの女眞族の如きは、比較的遲く國を建てた爲め、隣接した地方に、それよりも古く國を建て、記録によつて史實を傳へた國があるから、其の他種族の確實な記録によつて、このやうに詳細にその變化の樣子を知ることが出來るのであるが、是の如き變化は、之を他の種族の同種の傳説を研究する場合の參考とすることが出來るのであらうと思ふ。其は縱令其傳説を持つた種族よりも古い種族があつて、其當該種族の事實と傳説とを側面から證據立てることがなくても、是と類似したことは、大體に於て事實と傳説とが同樣の變化を經て居るものであると判斷する材料になるのである。
例へば支那の古代に於て、殷と周との開祖の傳説は、殷の方は契《せつ》の母が玄鳥の卵を墮すを拾つて食べたので姙娠し、契を生んだといふ話があり、周の祖后稷は、其母が野に出て巨人の足跡の拇を踏んで、其れに感じて姙娠して生れたと謂はれてゐて、各々別々の傳説であつたのであるが、後に其れが統一されて、后稷の母は帝※[#「學」の「子」に代えて「告」、第3水準1−15−30]の元妃、契の母は帝※[#「學」の「子」に代えて「告」、第3水準1−15−30]の次妃であるといふことになり、之を兄弟としてしまつた。斯ういふ風なことを見ると、事實と傳説とが如何なる關係を持つかを判斷するに、女眞族の祖先の如き事實を應用することが出來るであらうと思ふ。
日本に於ても同源傳説が種々に利用されるのであつて、大和朝廷の先祖と出雲國造の先祖とは兄弟であるといふ傳説である。即ち出雲國造の先祖も天照大神の子たる天菩比命であると云はれてゐるが、然し出雲國造が大和の朝廷に歸服した時の事實を見ると、日本紀では崇神天皇の時、出雲振根といふものがあつて、大和朝廷に歸服することに就て弟の飯入根と意見が異りたる所から、飯入根をだまして眞刀と木刀とを取り替へ、之を殺したのださうで、此の振根は又吉備津彦と武淳河別とに征伐せられて誅せられたといふ傳説があり、古事記では景行天皇の時、日本武尊が出雲建を騙して、やはり眞刀と木刀とを取替へ、之を誅したといふことになつて居るが、兎も角
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