て周になつたと申しますが、夏が代つて殷になつた時の確かな記録といふものは、今日では分りませんので、尚書の中に殷の湯が夏を征伐した時の湯誓・湯誥といふ誓誥の類はありますけれども、これらは大體物語で傳はつて居つたのが、或る時代に記録に書き入れられたらしく思はれますもので、全く初めから記録で保存されて居つたとは考へられませんのです。それのみならず、その夏以前に一體支那はどれだけの歴代があつたか知りませんけれども、ともかく夏が殷になり、殷が周になるといふことは、支那では餘程古代史上の大事件であつたのでありませうが、夏が殷に代つたといふやうな、ああいふ一つの朝廷が一つの朝廷に代つただけでは、まだ歴史といふものの考へがさう著しく現はれて來ないと思ふ。ところがもう二つも代つて來ますといふと、そこに王朝の變化といふものが餘程痛切に一般の人に考へられることになるものと見えまして、支那でこの夏殷周といふ三代に就ては、色々の點から考へられて居ります。後になつては、それに三統説といふやうなものをつけまして、さうして各※[#二の字点、1−2−22]その時代の特色を言ひ現はしたりなんかします。ともかく三代といふも
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