魏・趙の三家が奪ひまして、さうして小國になつたのでありますが、その魏の國の最初の人の畢萬といふ人が晉に用ゐられる時のやはり占がある。この畢萬といふのが魏といふ土地に封ぜられた。魏といふのは大きいことをあらはす名である、又萬といふのは、ものの數の極度であるから、この家が繁昌するだらうといふことに占つてゐる。この占は、朱子などの考では、やはりこれは魏の國が盛んになつて、韓・趙と三家で晉國を分けてしまつた時に書かれた、かう考へた。さうしますと魏の國の盛んとなつたと申しますと、魏の文侯・武侯・梁の惠王の頃のことでありますから、その頃になつて左傳が書かれた、かういふ風に朱子は考へたのであります。王應麟も之を朱子の語類によつて困學紀聞の中に書いて居りますが、王應麟は朱子程に極端には考へないで、これらの後からの記事は左傳の舊文ではない、もと左傳になかつたのを、後の人が入れたのだといふ風に考へて居ります(9)。ともかく左傳の成立の上に就いての問題は姑く措きまして、子孫が繁昌して居る所から、その起源に遡つて、さうしてその起源に關する記事から書き起すといふやうな考といふものは、これが隨分重大な歴史的思想だ
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