齊の國を奪つて取りますが、この田氏の先祖といふものは、陳敬仲といふ人が陳の國から行つて齊の國に仕へたのでありまして、その末孫が大變盛んになつて、さうして到頭齊の國を奪つたのであります。その陳敬仲が始めて齊の國へ行つて仕へたことが左傳の魯の莊公の二十二年の所に出て居つて、そこに占が出て居りますが、それは段々その家が盛んになつて、八代の後になつたならばこれより大きな家がなくなるだらう、といふやうなことを書いて居ります。それに對して、朱子はハヽアこれはつまり八代の後になつてその家が大きくなつた所を見てから書いた、これは後から前の占のことを書いたのだ、――朱子は左傳といふものは、多くは後來の人が書いたのだと云つて居りますが――後に盛んになつた家のことを見てから、その家が始めて興つた時のことを遡つて書くから、それで旨いあたつた八卦が書けたのだといふことを言つて居ります。さうしますと、齊の國が田氏に易つたといふのは、戰國の初めになるのでありますから、その頃のことを知つた人が左傳を書いたのだといふことになるので、左傳の記録された時代の一つの證據といふものになり得るのであります。
又晉の國は後に韓・
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