ゐてあるのは、必ず何か新しき事柄の始まつた時のことを現はしてあるので、この「始」といふことが大切なんで、「始」といふことが皆必ず書いてある。例へば隱公の五年に、祀りをする時の音樂に六※[#「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1−14−20]を用ゐたといふ時に「始用六※[#「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1−14−20]也」と書いてある。かういふ風に始めて何々するといふことは澤山左傳に出て居るが、それは皆「始」といふことが第一大切で、物の變化といふことのこれが證據《しるし》になるから、そこでこの「始」といふ文字を書いてあるのだといふことを困學紀聞の卷の二十に書いて居ります。左傳のみならず、禮記の中にそのことが澤山あることを先づ書いて居りまして、「禮記は禮の變化に於て皆始と曰ふ」といふことを書きまして、さうしてその次にずつとその例を擧げて居ります。主に禮記の檀弓・曾子問・玉藻・雜記・郊特牲、さういふ諸篇の中に、總て禮の變化に就て「何々のことは何々より始まつた」といふ風に皆書いてありますので、それを擧げて居りますが、先づ第一に檀弓に
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孔
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