−32]と申します鐘の銘の中には
[#ここから2字下げ]
咸有九州。處禹之堵。
[#ここで字下げ終わり]
かう出て居ります。これらは「堵」の字と「緒」の字は本來は同じ字であつたらうかと思ふのであります。さうしますと、つまりこの禹が水土を開いたといふ傳説の盛んに世の中に現はれて來たのは、西周の末から東周の初め頃であらうと考へられます。さうすれば商頌にしても、その作られた時代をこの頃と見る説の方が確からしくなるのであります。
それからして今申しました齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]の中に、金文として禹のことが現はれて居ります。この齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]といふ鐘は、古く宋の時の博古圖にも出て居ります。それから南宋の薛尚功の鐘鼎款識にも出て居りまして、これに關する研究は、近代になりましてから孫詒讓が古籀拾遺でやつたのが最も精確とされております。この中に殷の湯が伊尹の輔けによつて夏の桀を討つて、さうして九州をことごとく有して禹の居つた土地に居つたといふことが出て居り
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