立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]は朝廷の藏書を見た譯でもなし、何か證據があつて今日どれだけの本が殘つてゐるかを書いたのではなく、ただ傳聞を書き集めたに過ぎず、書目の學問としては不確かである。それで昔からの傳來の書は一切省いて、明一代の著述のみを集めたと云つてゐる。どうして作つたかといふことは、明史稿によると、個人の家藏の書目を取つてやや整理したとあり、これは千頃堂書目などを取つたことをいふのである。從來正史の藝文志・經籍志は、支那全體の現在書目を示し、その書籍並びに學問の源流を論じたが、ここに至つて全く體裁も内容も一變した。明史藝文志は、體裁は大體新唐書藝文志によつてゐる。從來正史は斷代史なるに拘らず、藝文志だけは通史の性質を帶び、古來よりその時代まで殘つた書を現はしてゐたが、ここに至つて藝文志も斷代史的に一變した。かうなれば將來は清史もこの例を追ふより外ないであらう。

       朱氏經義考・謝氏小學考・章氏史籍考

 正史の藝文志には、かくて目録學の方針は現はれないことになつた。そこで學問としての目録學は他の方面に傳はらねばならぬ。それは明史の編纂當時から起りつつあつた。部分的のものではあるが、經書に關するもののみを取扱つた朱彝尊の經義考などは即ちこれである。これは又目録學に一種の新らしい方法を開き、書籍を存・佚・未見の三通りに分け、なるべく著述の要旨を知るために、その本の序文の如きものを集めることにした。後になつて之に倣つて謝啓昆が小學考を書いたが、これは小學に關するもののみを集めたものである。史部のものとしては、章學誠が史籍考を書く筈で、序録だけは出來、部門や卷數も見當がついてゐたが、解題は出來なかつた。これは新機軸を出す筈であつたが惜しむべきである。

       四庫全書總目提要

 かくの如く目録學として書籍の内容を知ること、源流を知ることは、正史を離れて他の方面に向つたが、それが乾隆の時に至つて四庫全書總目提要となつて現はれた。これは大體に於て崇文總目の復興といふべきで、年數も十年を閲し、あらゆる學者を集めてこの大編纂を行つた。初めから崇文總目を標準としたことは明かである。當時の學問が北宋に比べて、書籍の内容、書目の學問に關する智識が進歩してゐたので、出來上つたものは、勿論崇文總目よりも遙かに優つてゐると思はれる。もつとも崇文總目は滿
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