足には殘つてゐないが、殘つたものについて考へると、四庫提要の如く解題として立派なものでない。
その總纂官は紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12](曉嵐)といふ非常な博識の人で、その下に集まつた學者も、當時有數なものであつたのみならず、古來よりの學者として考へても數百年に一度しか出ないといふ人達で、それが一部一部について詳しく批評し、その草稿を殆ど全部紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]が目を通して統一した。今日、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]が訂正して四庫提要に載せたものの外に、各學者の草稿も殘つてゐるが、これも立派で、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]の訂正したのと比べて何れがよいか分らぬものもあるが、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]は自分の見識により、その主張に合ふ樣に統一したのである。當時の有名な史學者邵晉涵が正史の解題を作つたが、同じ材料で全く別の意味にしたやうなのもある。とにかく紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]には一定の考へがあり、四庫提要の凡例に斷わつた主義の外に、斷わつてない一種の精神が全體に流れてゐる。之を研究すれば、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]の明言しない目録學が出來る譯である。勿論各部各子目の序論は紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]自身の筆で、これがすでに一種の著述といつてもよいものと云はれる。時としては焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の國史經籍志によつて書いた處もあるが、全體として一貫した意見があつたことは疑ひない。この人は妙な人で、この外には文集以外に何の著述もない。一生の精力をここに注ぎ盡したのである。彼の一種の主義と思はれるのは、經書とか歴史などで昔から知れ渡つてゐることには新たに解題をしないことである。邵晉涵は、史記についてもその由來を書いたが、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]は全然之を採用せず、本文には批評を加へずに、その注に解題を加へた。新らしく解釋するのも一つの方法ではあるが、あまりに知れ渡つてゐるからしなかつた。支那の如く長く學問の相續した國では、かかる方法も必要である。そこは支那の文化の程度を示した一種の目録であると云へる。
ともかく
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