支那目録學
内藤湖南
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(例)劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の
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目録學は支那には古くからあるが、日本には今もつて無い。これは目録といつても、單に書物の帳面づけをするといふやうな簡單なことではない。支那の目録學にはもつと深い意味がある。これを知らないと、書物の分類も解題もできない。のみならず、今日實際に當つて、色々のものを見るのに困る場合が多い。日本の目録には、意味のないことが多い。かの佐村氏の「國書解題」などでも、箇々の書の特質を標出し得ずして、何れの書にも同樣の解題をしてあるやうな處があつて、解題の意味をなさぬものがあるが如きである。
目録學の始
ともかく、現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。ところで、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が七略を作つたのは、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が創始したのではなく、その父の劉向が着手したのである。向が前漢の成帝の時より着手して、それを※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が仕上げたのであるが、それは前漢の哀帝の時である。哀帝の末年は西洋紀元前一年に當るから、大體西洋紀元の少し前頃に出來たものと思はれる。
この頃の學問は、多くは家の相續の學問で、劉氏も二代學者であるが、元來劉向の家は漢の宗室で、しかも不思議に宗室中で學問をした家である。先祖は楚の元王といつて、漢の高祖の弟である。馬上で天下を取つた高祖の兄弟ながら、學問好きであつたが、それ以來この家は學問が續いた。向の時になつて、成帝が天下の祕府に集まつた書籍の整理・校正を向に掌らしめたので、
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