ここに目録學が始めて興ることになつた。

       二劉の學の本旨

 勿論この目録學は、前述の如く、單なる帳面づけ、支那で謂ふところの簿録の學ではない。その本旨は著述の流別に在りとされてゐる。これは或る意味から云へば、學問が最後の點まで發達したものと見ることができる。といふのは、少くとも支那では春秋戰國以來、學問が次第に興つて色々の著述が出來たが、劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]に至つて、それらの著述を總論する學が出來た。單にこの點だけでも、學問の最後の結末をつける意味があるが、なほ詳しくその内容を考へると、戰國時代、學問の始めて盛になつた頃には、學問は大體哲學的で、各人の主張する理論を專らとした。從つて學問の上に色々の區別を考へるのにも、その主張・理論を主とした。然るに劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]に至つて、すべての學問、すべての著述を、單にその學派、その著述の有つ主義・理論の上から考へるに止めずに、その學問の由來を考へるやうになつた。學問を歴史的に考へるやうになつたのである。支那の學問といふものが、大體に於て、あらゆる學問を歴史的に考へる傾きを多く持つてゐるのは、ともかく、漢の時代にかかる傾きを生じたところから、一度出來上つた傾きを、いつまでも持つてゐた爲めと考へられる。それが支那の國の學問としての特殊の性質、支那文化の特殊の性質となつたのである。

       著述流別の源

 勿論劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が、著述の流別を考へたといふことも、その源は更に古くからある。これは恐らく戰國の頃からしてすでに、諸子百家の間に論爭の行はれた結果、自他の學派を區別する必要から、次第に出來たものと考へられる。春秋戰國以來の諸派の學問の中では、勿論儒家が最も早く發達した。從來から、殊に近來の支那の學者は、道家の方が儒家より先に發達したと考へるが、さうではない。儒家の方が早く發達したのであるが、その代り、同じ儒家の中で學派の分れたことも最も早かつた。儒家の諸流派については、すでに論語に見えてゐる。論語の成立が最も古いといふ譯ではないが、ともかく論語の中に、すでに流派の區別のあることが見える。即ち子張篇に、子游・子夏・子張などの人達が、各※[#二の字点、1−2−22]孔子から聞いたことにつき、異つた意見を傳へ
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